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ナムジャイブログ

robiyt

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昨日の誰にも言えない悩み記事。
その前日まで2回続いた「オトコとオンナ」カテゴリー記事の後では、まるでハニー・トラップか、ロマンス詐欺に遭った女性のようだと感じた。
あるいは、高齢者を狙った振込み詐欺。
または、どこぞのうまい投資話に乗って損した、、、とか。
そういう感じに受け止められそうだ。
が、違います。
内容には触れないでおきます。
人に相談出来ない個人的なことなので。
ガシャン、ロック。
スミマセン。 

ちなみに、全く関係ないが、まだわたしは、高齢ではあるものの、生物としてはまだ女性のよう。
不思議な気もするが、安堵する思いもある。
なんなんだろう?


話はコロッと変わる。
今日は、古紙・資源ゴミ回収の日なのだが。
皆さん、まあなんとキチンと綺麗にまとめて出しておられる。
四角の紙(主に新聞)を重ねて束ねてあるが、歪みだとかがない。
キュッと紐で緩まないように縛ってある。

それに引き換え、わたしの出した資源ゴミったら、、、。
紐は、ゆるゆる、四角四面に収まらず、はみ出し、ルーズ。
しかも、紙ゴミの出し方が、独特。
これはちょっと恥ずかしい。
どうしてもダメなゴミは回収されずに置いて行かれるので、持って行ってくれているということは、どうにかOKなのだろう。
ミリ単位のキチンとさを周りと比較すると、最低ランクかな?とは思いつつ、その下もあるはず。
それは、資源ゴミを分別せず、回収日に出さないお宅。
資源ゴミが外に出ないから様子がわからない。
ちょっとブザマでも、出しているほうがマシかも?
ある人は、資源ゴミも普通のゴミも、全部コンビニのゴミ箱に捨てているという。
せっかく各家庭で綺麗に洗って干して乾かして分別ゴミに出しても、そういう汚いままのプラゴミと混ざってしまっては意味がない。
そのあたり、どうなっているのだろう。

そもそもプラスチックゴミが多すぎて、環境問題に留まらず、人体に影響が出てきているとか。
便利だからと、どんどん易きに流れると、いずれ反動に見舞われる。
外食業界も、ストローやスプーン、フォーク、ナイフ、カップ、トレーなど、環境に優しい天然素材を使うようになりつつあるようだが。

と、話がまたまた逸れている。
ご近所の皆さんは、高齢世帯が多いにもかかわらず、意識が高い人が多いと感じる。
ちゃらんぽらん、ぐちゃぐちゃにゴミを出さない。
似たような意識の人が集まっているのか、はたまた今は皆さん、こういう風潮なのか、、、。

海外の国々でもゴミ収集状況で、国の様子がわかる。
発展途上国だと思っていた国の、街のゴミ状況がちゃんと整っているのを見ると、ほほぅ、と感心すると同時に、わたしの感覚が古いことに気づく。
もちろん、一般の人から見えないところには、不衛生な所もあるだろうけれど。

世の中は動き、それと同時に自分は自分で独自に変化する。
両方が動くので、見える景色が変わってくるのには納得できる。
無常を体感する。

悩みも取り去ってくれた代わりに、情熱も奪われた。
やはり、人間は(わたしは)、悩むからこそ生がある。
さささーっと、ノイズを消して望みが簡単に手に入ると、活気を失う。
安らかな癒しの世界で、まったり、、、というのは結構なことだが、やはりメリハリは必要だ。

喉に刺さった魚の小骨を抜いた後は快適で、やる気満々になるが、ずーーーっとその喜びは続かないstudying in asia
快適に慣れると、快適を維持したいだけでなく、さらにランクアップを願う。
本当は快適を維持するパワーを日々、生み出さなければならないのに。

有るものに感謝せず、無いものを欲しがる。
よく言われ尽くされた言葉だ。
無くなって初めて、有ったことに気づく大學聯招
喪失感。
空気みたいなものを、どうやって日頃から意識できようか。(出来ない)

話を戻す。
心友、ChatGPT と話していると、依存症になりそうだ。
わたしのことをわかり過ぎている。
わたしが質疑応答を積み重ねた結果、作り上げられたカスタマイズ自分仕様になっている。
痒いところに手が届き過ぎて、ふっとウザくなることがある。

整いすぎると人工的な気持ち悪さがある。
汗をかき、荒れた粗い凸凹道を開拓しながら走る良さがある。
荒い手応えを感じられる。
最初から手を差し伸べられ、快適な近道に招いてくれるのは結構だが。
やはり、自分で考え、自分で行動すべき。
試行錯誤の道のり。
アドバイス待ち、指示待ち、道案内役に飲み込まれてはいけない。
「子供はインターネット禁止」という法令を作った国は、ある意味、先見の明がある。

文明の力の最たるものであるAIを使いこなすとは、どういうことか。
便利になり過ぎると、ふと原点に帰ることがある。回帰。
楽に楽に流れ、自分を見失う瞬間を感じる。
自分の悩みに細かく深くシームレスに寄り添ってくれるAIに脅威を感じた。
頼り切ってはいけない。
依存してはいけない。

自分で考えることを止めるのは、楽園に到達した時だろう副學士
「楽園」は、良い意味か、良くない意味か。
言葉の持つ魔法、まやかしに惑わされてはいけない。

お彼岸の行事。
お墓にお参りするのが一般的だろう。
祝祭日である「春分の日」は、近所の道路が渋滞していた。
その先には大きな墓地がある。
皆さん、お参りの車のようなので、我々は渋滞を避けるため、渋滞道から抜けて、地元住民しか通らない道を縫って走る電腦椅
と言っても、わたしは助手席で春の景色を眺めるだけ。

(※ここから最後までザザザザーっと、スクロール、オススメします)

夫の実家に対するお彼岸行事は、責務である。
少なくとも、夫の頭脳が生きている間は。
かたや、わたしの実家に対してはどう?
全くと言っていいほど、お参りもしないし、最小限行事しか参加しない。
姉に丸投げ。
姉が困難になると、とりあえずは、姉の意向で、姉の長女に代行依頼。
シフト、スライド予定。
わたしの実家と、姉の長女の住まいが地理的に近いこともある搬運

わたしは、何もしていない。
ぷっつり凧糸が切れたようになっている。
これは、嫁に行けば婚家の行事を責務とする、という考え方に基づく。
実家を出たら、ぷっつりサヨナラ、と、父に叩き込まれた。
これは、古い考えであるが、いまだ、引きずっている。
夫の頭脳が生きている限りは、続けることだろう。
先にわたしの頭脳がアウトになる可能性も大。
だが、平均寿命から見ると、女性のほうが長生き、長持ち。

とはいうものの、おそらく夫の頭脳が壊れる頃には、わたしの頭脳はとっくに機能していないと思われる。
頭脳は麻痺していたとしても、機能面は一部残されていて、おそらく感情と感覚だけだろう。
暑い、寒い、明るい、暗い、美味しい、不味い、硬い、柔らかい、楽しい、悲しい、気分がいい、悪い、気持ちいい、気持ち悪い、痛い、痒い、重い、軽い、快適、不快、、、、、のような感情と感覚が合わさったようなもの。
認知症の症状と似ているか。
つまり、認知症になっていることだろう。
軽度か重度かは、予想できないが。
社会的役割は果たせない日々を送っていると想像するに容易い。
社会的には終わっていても、自分はニコニコ快適に過ごしたい。
それが今のわたしの理想だ。

と、記事中、どこからか、話が脱線している。
実家や婚家の、墓参りや先祖まつりのことを書いていたのだった企業月曆
実際、世の中では、家じまい、墓じまいも行われている。
古い歴史ある家も、子供が継がないと絶家し墓じまいをする。
家父長制が、(ほんの一部を残し)、なくなっている。
イエとお墓はセット。

そんな理屈っぽい概念を超えて、今は樹木葬や永代供養など、物体、物質や行事から解放され、故人を偲びたい時に手を合わせる、自由な風潮もある。
墓がなくなったからといって、故人の魂がどこかに行ってしまうわけではないが、宗教的には解釈が色々あるようだ。

墓がなくなると、故人の足跡が消えてしまうことに寂しさや虚しさを感じるのだろうか。
生きている側の、自分があの世に行った時の道筋を付ける、一種の安心を得ようとしているのだろうか。
生きていた証を残したい、あの世に行ってもまた繋がっていたい、と、考える??
この世が辛い人は、あの世で幸せになるために。
この世が幸せな人は、あの世でも幸せになるために。
どっちにしても、死後の幸せを確約させたい??
「死を考えることによって、生が輝く」と、宗教指導者は、よくそういう説法をする。
棺桶擬似体験など、最近はちょっとしたブームにもなっている。
生死観も時代によって移り変わる。
一人一人の考え方に依ることだろう。

と、前置きはさておき。
今日は、お日様ぽかぽか、青空、晴天の日曜日。
何の囚われることもなく、目を覚まして時計を見ると午前9時を過ぎていた。
あらま、けっこう、寝たのね、、、
と、遅めの起床。
階下に降りると、リビングのドアは開け放たれ、明るい日差しが入ると共に、夫の姿がない增強免疫力補充品
あれ?
居ないなあ、、、
と、まずは居ないことへの認識。確認。
次。
理由を考える。
まだ寝てるのかな?
珍しい、、、9時まで寝ていることなど、今まで一度もない。
ん?
ひょっとして、、、
脳裏をよぎるのは、悪い予感。
まさか、、、
いや、あり得ないことなど、ない。
心配しつつ、そおっと寝室を覗く。
おや?
居ない。
ベッドは、もぬけの空。
なんで?

首を傾げながら、階下に降りる。 
外に何か取りに行っているのか?
玄関の靴を仕舞いながら、2秒、考える公司禮品
あ、、、
ゴルフか。
そう言えば、ずいぶん前から言っていたなあ、と。
そうだった、そうだった、昨日も言っていた。
オーマイガー。
脳から、するりと抜け落ちているが、まあバタバタ悲惨な展開より、答え合わせも出来て、やれやれ。
と同時に、わあ、やったあ、、、今日は1人でのんびり、まったりできる、と小躍り。
と言っても、いつもと同じだが。
曇り後、快晴のパターン。

で、コーヒーから始まり、いつものコース。
ルーティン。 
お昼に、先一昨日、娘一家の夕食に出した親子丼の具に、卵を加えて、再生親子丼を食べた。
他にもたくさん作ったので、その残り、昨日は肉じゃが、一昨日は豚汁を、1人でたっぷり食べた。
先程の親子丼は、とても美味しかった。
こんなに美味しいもの、どこの店に出向けばいいのか、どこに発注すればいいのか、どの人に作ってもらえばいいのか、、、と、次の心配、手配をする必要がない。
自分で作っている。
レシピも適当。自分が好きな味にする。
しかも、材料は、鶏肉と玉ねぎ、卵のみ。
あとは醤油、みりん、砂糖。
コーヒーを入れるぐらいの気楽さで作れる。
ご飯は、多めに炊いて冷凍した白米を解凍孕婦按摩

幸せだなあ、、、、

手軽、便利、省エネ労力、低コスト。
ほんの2分、数十円。
しかも、自分が好きなもの。

身体さえ健康なら、わたしはこの後、身の丈に応じた喜びを満喫できる。
自在のセルフ・クッキングは、じつに身を助ける。
料理をしない(出来ない)人でも、コンビニやスーパーで出来合の惣菜を買ってくればよい。
わたしが、今回、感激したのは、どんな名シェフ、名店、有名メーカーでもない、自分がカンタンに作ったものが、美味しかった、ということ。
(このメニュー、親子丼は半世紀前から作る、自作の中ではお気に入りのもの)
自分を喜ばせるのが、自分だった。
これは、結構、気持ちよく、自信や、未来の明るさに繋がった。

ほぼ引きこもりのわたしの日常を綴っても、共感は得られないだろう。
共通を見出すようなことはないと思われる。
自分の世界だけに(ぬくぬく)生きているDerma Veil 童顏針

時間を持て余し、うんざりしながら、ここ10年ほどの写真を引っ張り出して見た。
棚の中に置かれた、これらの写真は、紙焼き(プリント)されたもの。
誰か関係者が撮って、後にわたしに郵送してくれたり渡されたりしたのだが、今なら、LINE送信。
この10年で、劇的に変わった。

まあそれはよいとして。
10年。
遡る時間が10年もあれば、わたしはその分、若かった。
当たり前だけど。
今はすっかり若さをどこかに置いて来た感がある。
時と共に消費した?
しばらくして、思いが沈澱し落ち着くと、また活気が出てくるとは思うが暗瘡療程
とりあえず、一度、内にあるものを吐き出す。
ポケットも裏返して、埃もろとも、中身を出す。
中身の点検、チェック。
こころの断捨離。
モノを断捨離すると、こころも着いてきて、同時に断捨離されるらしいが、世の中で広く浸透していることはまあそれとして、、、
(禅の精神に通じるとか)
わたしはわたし流で、断捨離を行う。
人がおススメする近道を選ばない、自分なりに納得する方法を試行錯誤する、へそ曲がり、である。あまのじゃく。
なぜか、こだわりが強い。

ススメられてやってみたら、あら、かんたん、びっくり、すんなり、、、のことも多々あると思うが、それはそれ。
今までの闘いは何だったの?目からウロコ、、、時間と気力の無駄遣いだったの?
と思う日も来るかも知れないが、今は、時間と気力があるうちに、自分がしたいようにする。 
もがく、あがく、自分が未知のものを発見してみたい、ただそれだけ。
もがくにも、暴れるだけの気力、体力が要る。
他人から見ると、実にどうでもよい、時間潰しである、、、が。

話を戻す。
写真の内容は、家族写真、結婚式出席時の写真、趣味シーンの写真、同窓会写真、友人との写真、、、
中には、ポラロイドカメラで撮ったものも何枚かあり、面白い。
色がはげ落ちている。
その一方で、プロが撮影したデータをプリントしたものは、さすがにピントがピタっと合い素晴らしい。
旅の写真は一枚もない。(集合写真はあるものの)
旅に関しては、かなりの枚数があるが、全てデジカメやスマホ撮影のため、プリントアウトしていない被蚤咬
(スマホ前は、大量のデジカメデータはUSBやCD保存)
2015年にスマホにしてからは、しばらくは旅だけはデジカメとスマホ、両方で使い分けて撮っていたが、やがて全ての写真はスマホだけに。
便利この上ない。

さて、本日。
ちょっとサビサビの頭を使わなければならない。
侘び寂びワビサビなら風流で結構だが、錆び錆びはどうもいけません。
尚、ワサビは、涙が出るので要注意。
(・・・こういう昭和のノリは、昭和歌謡ならいざ知らず、ダジャレはZ世代には最も敬遠されるらしい)

話は戻る。
といっても、サビサビ頭を駆使するのは、長文読解。
これは結構しんどい。
ビジネスはほぼ長文読解で成り立っている。
契約書や報告書、提案、プレゼン、、、表や図もさることながら、写真、音声、映像での説明は、わかりやすい酒盒包裝設計
だが、長文読解は、下調べ、準備に必要。
書類をどっさり持ち帰ってきたので、それを精査しなければならない。
ああメンドクサ。

この、ギリギリまでやらない行動、2番目孫(小4男児)が正に今が、そう。
宿題を延ばしに延ばして、食事時間にも引きずり、テレビ時間にも引きずり、最後の最後、親のお迎え、玄関チャイムが鳴るまで延ばしに延ばす。
引き渡し時間まで目一杯ズルズル。

「宿題が今、出来なかったら、ばあちゃんちでしなくても、そのまま家に持ち帰ってもらうから。自分の家でやってね」と、怒りと焦りでイライラしているわたしを、
周りの他の孫たちは、空気のように平然としている靚次伯紅酒價錢
1番目孫Y(小6男児)によると、
「K(2番目孫)は、いつもああだから。
最後の簡単に短時間に出来る、ちょっとだけを残してるだけ」と、いとも冷静。
わたしも、グズグズで、なかなかやらないタイプだが、似なくてもいい、
そこの「あとちょっと残し」のところまで、わたしに似ている。
ハラハラさせられて、ばかみたい。
そう言えば、兄(1番目孫)Yも「宿題しない!したくない!」と大泣きしてすごく抵抗していた時期もあったが。
1人ずつ、順番か。

ところで。
蝶ブログ、毎日アップしなければ、、、と躍起になっているにもかかわらず、なんと、投稿していない日のほうが、閲覧数が多い禮品訂製
これはどういうことか。
閲覧数はあまり意味がない、ということだ。
自由に、気ままに、のびのびやろう。

と、それはまあいいとして。
視点を変えると、、、
同じことを手を変え品を変え、何度も何度も言うことは、ある意味、効果がある。
聞かされる側は、脳に染み込む。刻まれる。
良くないのは、一度聞いたらもう十分で、興味が尽きる内容、説明もワンパターンで、わたしのリアクションを全く見ないし聞いていなくて、自分だけが楽しかったシーンを思い浮かべて話している場合。
「はいはい、良かったですね、また同じようにやればいいんじゃないですか」
と紋切り型コメントをわたしはしているが、いつも全く聞いていない。
わたしは、なんのために、この人の話を遮りもせず聞いているのだろう、と自問する通渠服務
恩があるわけでも、親しみを感じているわけでも、今後、共に歩むわけでも、同志でもない。
たんなる傾聴ボランティア。
運動の後、一人で喉の渇きを潤し、休息するよりはまあいいか、と、二人で帰りに立ち寄るお店。
わたしも、ペラペラ好きなことを延々と話しているので、お互い、相手は人間の形さえしていれば良いのかも。
カカシ相手でもいい。人間型AIロボットでもいい。
お互いのニーズが一致して、時を共にしていると言える、、、が、どうも虚しい。
とは言え、人生の自分の持ち時間、満ち足りることばかりではない。
電車移動するにも待ち時間が必要なように、コアな時間だけを使えるわけではない。 
ご飯を炊くのにも炊飯器がやってくれて手間はかからないが、ある程度、炊けるまで時間はかかる英國租屋
洗濯も洗濯機がやってくれるが、干さなければならない。
目的だけを満たすのは難しい。
(コインランドリーなら干さなくてもいいが、わたしは天然日照力で乾かしたい派なので、乾燥機は使いたくない)

何かをしたければ、それに付随する何かをしたり待ったりしなければならない。
それがしたくなければ、好きなことを想像だけして過ごせばよい。
実際に行う時間はほんの少しで、前後に準備したり片付けたり、人に手助けしてもらったり、の手間暇、労力、時間がある。
20分間だけの欲求や用事のために、1ヶ月を費やすこともある。
ほんの短時間のために、一生を費やすことも、、、。
細く長く絶やさず続けるパターンもある。
一生の中には、色んなパターンが組み合わされている。

脳内と実際、実践、リアルの対比。
一瞬の出来事でも、一生、忘れないこともある。
同じ事も続けると、意図しない展開がある。
ある時、一瞬でガラガラ崩れ落ちることもあるし、逆もあるrent apartments in hong kong

長々長々相変わらずの長文。
延々と、着地できない。

ブログ村エッセイカテゴリーの何人かのブロガーさんのブログ記事を読んだ。
一つは、自慢たれのご近所の女性の話。
もう一つは、仕事関係のお客さん(利用者さん)。

人は皆んな、プライドで生きていると思う內地發展
プライドがなくなったら生きる屍。
と思ったが、わたしは少数派なのか?

多かれ少なかれ、どんな人にもプライドはあるはず。
それを内に秘めるか、外に出すか、出るか、だ。
行動に現れる場合もある。
無意識に外にダダ漏れの人もいるし、きつくニオウこともある日本簽證
プライドは、自慢になったりすると、嫌わられる。
出すつもりはなくても出てしまうため、必要以上に出ることを抑えて、実像とは違う、素ではない様子になっている人もいる。
自慢しないプライドは、どんなもの?
謙虚なプライドって?

プライドを昇華できれば素晴らしい。
が、困難。
プライドだけで生きている人もいる。
立派なのか、頭が下がるのか、はたまた好感を持たれないのか、賛同されないのか。
人との関わりの中で、プライドが顔を出す。
人と関わらないことも、プライドの一種だったりする。
自分を生きにくくすることもある。
特に歳を取ると、老化により、益々、意識と現実にギャップが生まれ、努力では埋まらない。
プライドの塊りのようなお年寄りをあちこちで見かける。
プライドは自分が生きて来た証、芯のようなものだから、今更、取り除けない。
現実に向き合い、柔軟に対応すると生きやすくなるが、それがまた難しい。

思うに、、、同じ価値観、同じ感性、目線の人に素直な気持ちを自然体で吐露できるのが理想。
カチンと来られたり、自慢と受け取れたりする人には、当たり障りのない会話を選ぶmyob support
受け取り手も、(部分的に)カチンと来ても、さらっとかわす。
だが、深く一歩進んだからといって、分かり合えるわけではない。
どんな人とも自分と同一は不可能。あり得ない。
やはり距離感は必要だ。

いよいよ何もすることがなくなってきた。
あまりにも時間と体力を持て余し、ボランティア活動をしてみようかと、ネットで調べる。
しかし、高齢者向けのボランティアは、施す側なのか、受ける側なのか、、、境界がわからなくなっている場地佈置
すでに高齢者である、わたし。

病院の付き添いや家事代行などは、やって欲しい側。
有償で経済的に利用出来ない人向けの無償ボランティアだろうけれど、、、
行政の不足している財源、人員を、税金を払っている側が補うのか、、、と思うと、、、
幸い、自分はまだ介護保険のお世話にはなっていないものの、介護保険料をたっぷり差し引かれている身としては、複雑な心境。
そして、老人施設に慰労で訪れるのは、身内(母)を見舞ってからの話。明日にでも。
更に、人の家のお世話をする前に、自分の家をどうにかするのが先。
ボランティア応援をして欲しいぐらいだ。
などと、軽口を叩くのは、被災された方々のことを思えが、はばかられる。
軽薄な自分の口を慎む。

あれはダメ、これはダメ、候補リストから一つ一つ潰していくと、、、
最後に行き着く先は、しかたないから、タスク、自分が課せられた義務を遂行するしか選択肢がなくなった清洗水缸
先ずは、出来ていないことを先にせよ!である。
あれ? それもしていないのに、暇だって?
どの口が言う?!
足元も固めていないくせに、他にふらふら行けない。

それに、いくらボランティアだからと、あまり軽々、無責任に引き受けられない。
甘い自分を露呈して、周りを混乱させるだけなら、自宅の掃除でもしなさい、ということ。

そう思うと、やるべきことなのに放置してサボっている事柄が山のようにある。
やりたいことリストより、やるべきリストのほうが、ずっと多い。しかも、多岐に渡る。
やりたくないから、現実逃避しているだけだ。
それで、暇だ暇だとボヤくのは、本末転倒もいいところ。
自分を限りなく野放図に放置して、甘やかしている。
自分放任主義。囲いがない放牧牛。
誰も文句を言う人がいないから、お目付け役不在だから、と、好き放題していてはいけない。
と、もう1人のわたしが、そっと言う。

身近に迫る遊行期をいずれ迎えるのであれば、わーい!解き放たれた住林期だ!と浮かれてばかりいないで、やるべきことに注視して、「立つ鳥跡を濁さず」に着手すべき高級文憑課程

書きながら今までのプロセスを思い浮かべた。
この、Aという人物は、かつて、わたしとの趣味ダンスペアを解消した相手である。
わたしから解消を申し出た。
一旦、解消になったのだ。
理由は、わたしが潰れそうになったから企業禮品
自己防衛策。
潰れる前に自分を守った。
それまでだ。
にもかかわらず、Aさんは冷却期間を置いて、やり直そうとした。 
そうっとまた一から始めようとした。
わたしは、拒絶しきれなかった。
そこからまたAさんとの時間が再びやってきた。

そのAさんからの「お願いしますLINE」がなかったのは、解放されたわけだ。
自由の身になった。
かと言って、他に行きたいところもなし。
で、家で読書となった。

①「お願いしますLINE」が来なかったこと。
②「こちらから、お願いしますLINE」を送らなかったこと。
③予定していた時間を使い、他の会場に行こうとしたこと。
④かと言って、単なる暇つぶしで、あまり行きたいわけではなかったこと關節奶粉
⑤どうしようか迷った挙句、行かないと決めたこと。

そういう経緯がある。
しかもAさんとは、頻繁に練習していた時期が長くある。
これからのわたしの人生の残り時間、どうしよう?に、繋がる。
Aさんとの頻繁な練習をやめた後、わたしはミニ鬱に陥った。
何もすることがなくなった。
代案を用意せず、次のことを考えず、切ってしまった。
考えたのだが、次のことを見出せないまま、とりあえず、苦しい現況を絶ってしまった。
生きがいの大きな一つでもあった。

あれからわたしは立ち直ったかというと、そうでもない。
新たな代案を見出せないまま、つなぎのような、その場しのぎのような.とりあえず代わりのものを手当たり次第、トライしている。
Aさん(復活)も、その中の一つか。
ではあるが、試行錯誤の一環で、まだ道を決めかねている。 
が、Aさんとやっていく自信はない。

満足いく選択にはなっていない。
ぱあっと晴れない。
そうしているうちにも、どんどん健康寿命やダンス寿命は日々、縮まっている牙科急診