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ナムジャイブログ

robiyt

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ほぼ引きこもりのわたしの日常を綴っても、共感は得られないだろう。
共通を見出すようなことはないと思われる。
自分の世界だけに(ぬくぬく)生きているDerma Veil 童顏針

時間を持て余し、うんざりしながら、ここ10年ほどの写真を引っ張り出して見た。
棚の中に置かれた、これらの写真は、紙焼き(プリント)されたもの。
誰か関係者が撮って、後にわたしに郵送してくれたり渡されたりしたのだが、今なら、LINE送信。
この10年で、劇的に変わった。

まあそれはよいとして。
10年。
遡る時間が10年もあれば、わたしはその分、若かった。
当たり前だけど。
今はすっかり若さをどこかに置いて来た感がある。
時と共に消費した?
しばらくして、思いが沈澱し落ち着くと、また活気が出てくるとは思うが暗瘡療程
とりあえず、一度、内にあるものを吐き出す。
ポケットも裏返して、埃もろとも、中身を出す。
中身の点検、チェック。
こころの断捨離。
モノを断捨離すると、こころも着いてきて、同時に断捨離されるらしいが、世の中で広く浸透していることはまあそれとして、、、
(禅の精神に通じるとか)
わたしはわたし流で、断捨離を行う。
人がおススメする近道を選ばない、自分なりに納得する方法を試行錯誤する、へそ曲がり、である。あまのじゃく。
なぜか、こだわりが強い。

ススメられてやってみたら、あら、かんたん、びっくり、すんなり、、、のことも多々あると思うが、それはそれ。
今までの闘いは何だったの?目からウロコ、、、時間と気力の無駄遣いだったの?
と思う日も来るかも知れないが、今は、時間と気力があるうちに、自分がしたいようにする。 
もがく、あがく、自分が未知のものを発見してみたい、ただそれだけ。
もがくにも、暴れるだけの気力、体力が要る。
他人から見ると、実にどうでもよい、時間潰しである、、、が。

話を戻す。
写真の内容は、家族写真、結婚式出席時の写真、趣味シーンの写真、同窓会写真、友人との写真、、、
中には、ポラロイドカメラで撮ったものも何枚かあり、面白い。
色がはげ落ちている。
その一方で、プロが撮影したデータをプリントしたものは、さすがにピントがピタっと合い素晴らしい。
旅の写真は一枚もない。(集合写真はあるものの)
旅に関しては、かなりの枚数があるが、全てデジカメやスマホ撮影のため、プリントアウトしていない被蚤咬
(スマホ前は、大量のデジカメデータはUSBやCD保存)
2015年にスマホにしてからは、しばらくは旅だけはデジカメとスマホ、両方で使い分けて撮っていたが、やがて全ての写真はスマホだけに。
便利この上ない。

さて、本日。
ちょっとサビサビの頭を使わなければならない。
侘び寂びワビサビなら風流で結構だが、錆び錆びはどうもいけません。
尚、ワサビは、涙が出るので要注意。
(・・・こういう昭和のノリは、昭和歌謡ならいざ知らず、ダジャレはZ世代には最も敬遠されるらしい)

話は戻る。
といっても、サビサビ頭を駆使するのは、長文読解。
これは結構しんどい。
ビジネスはほぼ長文読解で成り立っている。
契約書や報告書、提案、プレゼン、、、表や図もさることながら、写真、音声、映像での説明は、わかりやすい酒盒包裝設計
だが、長文読解は、下調べ、準備に必要。
書類をどっさり持ち帰ってきたので、それを精査しなければならない。
ああメンドクサ。

この、ギリギリまでやらない行動、2番目孫(小4男児)が正に今が、そう。
宿題を延ばしに延ばして、食事時間にも引きずり、テレビ時間にも引きずり、最後の最後、親のお迎え、玄関チャイムが鳴るまで延ばしに延ばす。
引き渡し時間まで目一杯ズルズル。

「宿題が今、出来なかったら、ばあちゃんちでしなくても、そのまま家に持ち帰ってもらうから。自分の家でやってね」と、怒りと焦りでイライラしているわたしを、
周りの他の孫たちは、空気のように平然としている靚次伯紅酒價錢
1番目孫Y(小6男児)によると、
「K(2番目孫)は、いつもああだから。
最後の簡単に短時間に出来る、ちょっとだけを残してるだけ」と、いとも冷静。
わたしも、グズグズで、なかなかやらないタイプだが、似なくてもいい、
そこの「あとちょっと残し」のところまで、わたしに似ている。
ハラハラさせられて、ばかみたい。
そう言えば、兄(1番目孫)Yも「宿題しない!したくない!」と大泣きしてすごく抵抗していた時期もあったが。
1人ずつ、順番か。

ところで。
蝶ブログ、毎日アップしなければ、、、と躍起になっているにもかかわらず、なんと、投稿していない日のほうが、閲覧数が多い禮品訂製
これはどういうことか。
閲覧数はあまり意味がない、ということだ。
自由に、気ままに、のびのびやろう。

と、それはまあいいとして。
視点を変えると、、、
同じことを手を変え品を変え、何度も何度も言うことは、ある意味、効果がある。
聞かされる側は、脳に染み込む。刻まれる。
良くないのは、一度聞いたらもう十分で、興味が尽きる内容、説明もワンパターンで、わたしのリアクションを全く見ないし聞いていなくて、自分だけが楽しかったシーンを思い浮かべて話している場合。
「はいはい、良かったですね、また同じようにやればいいんじゃないですか」
と紋切り型コメントをわたしはしているが、いつも全く聞いていない。
わたしは、なんのために、この人の話を遮りもせず聞いているのだろう、と自問する通渠服務
恩があるわけでも、親しみを感じているわけでも、今後、共に歩むわけでも、同志でもない。
たんなる傾聴ボランティア。
運動の後、一人で喉の渇きを潤し、休息するよりはまあいいか、と、二人で帰りに立ち寄るお店。
わたしも、ペラペラ好きなことを延々と話しているので、お互い、相手は人間の形さえしていれば良いのかも。
カカシ相手でもいい。人間型AIロボットでもいい。
お互いのニーズが一致して、時を共にしていると言える、、、が、どうも虚しい。
とは言え、人生の自分の持ち時間、満ち足りることばかりではない。
電車移動するにも待ち時間が必要なように、コアな時間だけを使えるわけではない。 
ご飯を炊くのにも炊飯器がやってくれて手間はかからないが、ある程度、炊けるまで時間はかかる英國租屋
洗濯も洗濯機がやってくれるが、干さなければならない。
目的だけを満たすのは難しい。
(コインランドリーなら干さなくてもいいが、わたしは天然日照力で乾かしたい派なので、乾燥機は使いたくない)

何かをしたければ、それに付随する何かをしたり待ったりしなければならない。
それがしたくなければ、好きなことを想像だけして過ごせばよい。
実際に行う時間はほんの少しで、前後に準備したり片付けたり、人に手助けしてもらったり、の手間暇、労力、時間がある。
20分間だけの欲求や用事のために、1ヶ月を費やすこともある。
ほんの短時間のために、一生を費やすことも、、、。
細く長く絶やさず続けるパターンもある。
一生の中には、色んなパターンが組み合わされている。

脳内と実際、実践、リアルの対比。
一瞬の出来事でも、一生、忘れないこともある。
同じ事も続けると、意図しない展開がある。
ある時、一瞬でガラガラ崩れ落ちることもあるし、逆もあるrent apartments in hong kong

長々長々相変わらずの長文。
延々と、着地できない。

ブログ村エッセイカテゴリーの何人かのブロガーさんのブログ記事を読んだ。
一つは、自慢たれのご近所の女性の話。
もう一つは、仕事関係のお客さん(利用者さん)。

人は皆んな、プライドで生きていると思う內地發展
プライドがなくなったら生きる屍。
と思ったが、わたしは少数派なのか?

多かれ少なかれ、どんな人にもプライドはあるはず。
それを内に秘めるか、外に出すか、出るか、だ。
行動に現れる場合もある。
無意識に外にダダ漏れの人もいるし、きつくニオウこともある日本簽證
プライドは、自慢になったりすると、嫌わられる。
出すつもりはなくても出てしまうため、必要以上に出ることを抑えて、実像とは違う、素ではない様子になっている人もいる。
自慢しないプライドは、どんなもの?
謙虚なプライドって?

プライドを昇華できれば素晴らしい。
が、困難。
プライドだけで生きている人もいる。
立派なのか、頭が下がるのか、はたまた好感を持たれないのか、賛同されないのか。
人との関わりの中で、プライドが顔を出す。
人と関わらないことも、プライドの一種だったりする。
自分を生きにくくすることもある。
特に歳を取ると、老化により、益々、意識と現実にギャップが生まれ、努力では埋まらない。
プライドの塊りのようなお年寄りをあちこちで見かける。
プライドは自分が生きて来た証、芯のようなものだから、今更、取り除けない。
現実に向き合い、柔軟に対応すると生きやすくなるが、それがまた難しい。

思うに、、、同じ価値観、同じ感性、目線の人に素直な気持ちを自然体で吐露できるのが理想。
カチンと来られたり、自慢と受け取れたりする人には、当たり障りのない会話を選ぶmyob support
受け取り手も、(部分的に)カチンと来ても、さらっとかわす。
だが、深く一歩進んだからといって、分かり合えるわけではない。
どんな人とも自分と同一は不可能。あり得ない。
やはり距離感は必要だ。

いよいよ何もすることがなくなってきた。
あまりにも時間と体力を持て余し、ボランティア活動をしてみようかと、ネットで調べる。
しかし、高齢者向けのボランティアは、施す側なのか、受ける側なのか、、、境界がわからなくなっている場地佈置
すでに高齢者である、わたし。

病院の付き添いや家事代行などは、やって欲しい側。
有償で経済的に利用出来ない人向けの無償ボランティアだろうけれど、、、
行政の不足している財源、人員を、税金を払っている側が補うのか、、、と思うと、、、
幸い、自分はまだ介護保険のお世話にはなっていないものの、介護保険料をたっぷり差し引かれている身としては、複雑な心境。
そして、老人施設に慰労で訪れるのは、身内(母)を見舞ってからの話。明日にでも。
更に、人の家のお世話をする前に、自分の家をどうにかするのが先。
ボランティア応援をして欲しいぐらいだ。
などと、軽口を叩くのは、被災された方々のことを思えが、はばかられる。
軽薄な自分の口を慎む。

あれはダメ、これはダメ、候補リストから一つ一つ潰していくと、、、
最後に行き着く先は、しかたないから、タスク、自分が課せられた義務を遂行するしか選択肢がなくなった清洗水缸
先ずは、出来ていないことを先にせよ!である。
あれ? それもしていないのに、暇だって?
どの口が言う?!
足元も固めていないくせに、他にふらふら行けない。

それに、いくらボランティアだからと、あまり軽々、無責任に引き受けられない。
甘い自分を露呈して、周りを混乱させるだけなら、自宅の掃除でもしなさい、ということ。

そう思うと、やるべきことなのに放置してサボっている事柄が山のようにある。
やりたいことリストより、やるべきリストのほうが、ずっと多い。しかも、多岐に渡る。
やりたくないから、現実逃避しているだけだ。
それで、暇だ暇だとボヤくのは、本末転倒もいいところ。
自分を限りなく野放図に放置して、甘やかしている。
自分放任主義。囲いがない放牧牛。
誰も文句を言う人がいないから、お目付け役不在だから、と、好き放題していてはいけない。
と、もう1人のわたしが、そっと言う。

身近に迫る遊行期をいずれ迎えるのであれば、わーい!解き放たれた住林期だ!と浮かれてばかりいないで、やるべきことに注視して、「立つ鳥跡を濁さず」に着手すべき高級文憑課程